2018/12/09
言語化により私の感情は認知される。
私のことなのに、私は私のことが分からない。
心のなかにある、どこかすっきりしない気持ちがなんなのか分からない。
刹那的に味わう快楽があれどその気持ちが心かどこかにある。
それにすら気づかず、ぼんやりと炬燵で検索エンジンを叩く。
ふと思いついたことを検索エンジンに乗せてクリックをすれば、関連した世界中の人の意見を目にすることができる。
私が叩いたワードは、ある人の名前だった。
数年前に自ら命を絶ったある女性の名前。ネット上に彼女の息遣いが残る場所に、道を辿るように。ふと過ったそれを叩いた。
その場所は私にとっては辛い気持ちを表明する場所だ。
彼女の言葉が私の思いを映し出す鏡なのだ。
つらい、怖い という純粋な気持ちを言語化してくれる手段のようになっているのだ。
もちろん、イコールではない。
彼女の苦しみも環境も、私には知り得ないし、きっと似ても似つかぬものだ。
違う。そうじゃない。
同一視をしているとかそういうのじゃない。
ただ、よく分からないが、心にモヤがかかったようなそんなとき、彼女のことを思い出すのだ。そしてあの場所に行って、彼女に救われるのだ。
苦痛の表明が下手くそな私は、きっと彼女の純粋な感情が閉じ込められているあの場所で、やっと表明することができる。
「これは苦痛だったんだ」と。
苦しいという言葉が一人でに出ない。
私にとっては苦痛は無意識のなかに潜在している。
誰かの怒りや悲しみに共鳴して、初めてその存在に気づく。
その苦痛から離れたとき、無くなって初めてそれの存在に気づく。
一人で戦場に立つなかで安堵はない。
苦痛の知覚に必要なのは安堵だ。
痛い、悲しい、つらいなど戦場で言う間はない。
安堵は、共感と受容。
私はどうも一人で生きるなど無理らしい。
「誰もが一人では生きられないよ」と待ってましたなと言わんばかりに、その陳腐なフレーズを突きつけられそうだが。
複数の繋がりをバランスよく保持して生きるカールじいさんの家タイプでなくて、私は一つの風船に頼る気球タイプなわけで。
あー、そうか。誰もが一人でどうにかできていないのか。